おば~ちゃんとの12年半
昨晩と今朝と新しく始めるパソコン出張サポートの仕事用の名刺を作っていました。市の施設で行っているパソコン入門教室の7、8、9月教室の募集広告を、7月1日の市広報に載せてもらうための電子申請もしました。午後は庭の椿についたチャドクガの駆除です。枝を高枝鋏でどんどん切り落とし、地上に落ちた葉についているチャドクガに殺虫剤を噴霧しました。どんどん枝を落とし、最終的には椿の木は伐採するつもりです。花は綺麗ですが、毎年チャドクガで悩まされるからです。(^^;)
曇り | おば~ちゃんとは、結局12年半ふたりで暮らしました。その間持病の虚血性心疾患による入院が2回と、今回の骨折・肺炎による入院がありました。最初の入院は一緒に暮らし始めて2年目の冬、おば~ちゃんが79才の時でした。集中治療室に、明日イスラエルに巡礼の旅に出るというキリストの幕屋の伝道師の方が来て祈ってくださったら、翌日おば~ちゃんの心電図の波形が正常になって元気になってしまいました。 2回目の入院はおば~ちゃん85才の時でした。暮れ近くになって具合が悪くなり、毎日のように発作が出て苦しがるようになってしまいました。寝床のそばにブザーのスイッチを置いておいて、発作が始まると夜中であろうと夜明けであろうとわたしが2階から飛び降りて来て、ミオコールというニトログリセリンのスプレー薬をおば~ちゃんの舌下にスプレーしました。あの頃はもういよいよだめだと思いました。その時に泣く泣く作ったのが、今回のお葬式に使った額入りの写真です。そんな状態が翌年の3月頃まで続き、とうとう救急車でお世話になっている立川相互病院に。その時は桜が咲くまでおば~ちゃんを生かしてください、なんて祈ったものでしたが、病院で心臓カテーテル検査とバルーン手術をしていただき、何とか退院までこぎつけました。その後心不全による浮腫みが出、またその年の6月に再入院。しかし若い男性の先生が、おば~ちゃんにあった利尿剤を見つけてくださり、浮腫みが取れてまた元気になってしまいました。ただその時、動き回るおば~ちゃんを大人しくさせるために睡眠薬を与えすぎ、帰宅後夜間せん妄が出て困りました。しかしそれは、睡眠薬を止めることですっかり治りました。以来3年間発作もなく、面白くて楽しいおば~ちゃんと平穏な日々を過ごすことができました。感謝感謝。 そして去年、春頃から心臓がおかしい、苦しいで2回ほど救急車で立川相互に行ったのですが、大事に至らず退院。しかし夏頃より、おば~ちゃん自身が、頭がおかしくなってしまったといいだしました。考えがまとまらないとのことです。10月に入ったら、突然徘徊するようにもなってしまいました。玄関にいくつも鍵をつけたりしたのですが、大雨の日の夜中1時に庭側の戸から抜け出し、玄関前で転倒して骨折。その後はこのブログの最近の書き込みを読んでいただければ分かりますが、飲み込み障害、肺炎、寝たきりと経過をたどり、先月の31日にとうとう天に召されました。庭側の戸の鍵を、何でもっと厳重にしなかったか、それだけを今でも悔やんでいます。骨折さえしなかったら、もう少し痛い目をみずに天に昇れたのではと...。おば~ちゃん許してね。m(_ _)m ですから、2回目に具合が悪くなった2002年の暮れから、わたしは非常勤としてお手伝いに行っていた農工大の仕事を辞め、ずっと家でおば~ちゃんのお世話と見守りをしていました。家にばかりいて、パソコンばかりいじっていたので、パソコンに詳しくなったという訳です。今寂しいですが、とても自由です。どこにでも行けます。泊まりの旅行にも行けます。でも仕事を辞めてからは、おば~ちゃんの遺族年金でふたりで暮らしていましたので、これからは年金が出る10年後まで何かで収入を得なければなりません。幸いおば~ちゃんと暮らしている間、ヘルパーさんに来ていただきパソコン教室をしていましたので、その関係の仕事ができそうです。パソコン出張サポートなる仕事も始めました。忙しくなってくれればいいのですが...。それには実力もさることながら、愛想よくいつもニコニコしていなければだめですね。おば~ちゃん、天から見ていてください。(^^;) |
葬儀を終えて…
豊田駅北交流センターは、JR豊田駅の北にあるのでその名前がつけられたのですが、場所をもう少し詳しく説明しますと富士電機の隣、グランループというマンションに隣接したところにあります。そこから西友の入り口に向かう途中に(地図) 本格的インド・ネパール料理SANGAM というお店がオープンしました。確かJR日野駅の近くにもあったと記憶しています。
曇り 晴れ 曇り 雷 |
きょうはだんだん晴れて来たのですが、時折ポツリポツリ来たり夕方になって雷の音が聞こえたりしました。午前中に1時間歩くことができました。4?5キロほどでしょうか。その後シャワーを浴び、豊田駅北交流センターに行って予定表を取り替え、みずほ銀行に寄って預金と通帳の更新をし、ムラウチ電気に回ってパソコンのプリンター用紙を何種類か買いました。その足で今度は宮にある日野郵便局に行き、きのう不在でいただけなかった郵便物を受け取りました。お香典と、新しく発行された国民健康保険被保険者証でした。病院なんかでは、よく保険証保険証といっていますが、正しくは国民健康保険被保険者証というのですね。お腹が空いて来たので、栄町のいなげやに寄り、お弁当やらお新香やら色々購入。帰宅してゆっくり食べさせていただきました。 お金を預け入れしたみずほ銀行の口座から、お通夜のふるまい料理を出してくださった会社への支払いをパソコンを使ってインターネット上で行いました。みずほマイレージクラブのクレジットカードで毎月のネット接続料を支払っている関係で、みずほの支店間の送金は全て手数料が無料で済みます。お昼を食べ終わったら、何だか眠くなって来てしまいました。若い頃からそうです。高校の時も、よく午後の最初の授業はこっくりこっくりしてしまって困った記憶があります。それで少しお昼寝。 朝、立川相互病院から会計ができますとの連絡をいただいていましたので、きょうのうちにお支払いしたくなり、4時を過ぎてから行きました。いつもの寝巻き代、今回は亡くなった後に着せる浴衣のお代も含まれていますので、ちょっと額が多くなっていました。それに死亡診断書の作成料。後その他となって一万円ちょっと請求されていましたが、これは亡くなったおば?ちゃんの体を拭いたり着替えさせたりした時のお代でしょうか。よく分かりませんでした。それとおば?ちゃんが転院する時にするつもりで用意していたまとまったお金を、病院にと寄付させていただきました。思い起こせばおば?ちゃんは日野台診療所と立川相互病院に30年近くお世話になり、おかげで90歳まで生きることができました。おば?ちゃんもけっこういうべき時にはちゃんという人でしたので、立川相互で散々待たされて、怒って病院に文句をいって帰って来たこともありました。確かその時はカルテがちゃんと回されていなかったらしく、後から来た方が次々と呼ばれていたとのことでした。病院のどなたかが、自宅まで謝りに来られたように記憶しています。大腸内視鏡検査の時は、おば?ちゃんが途中で痛くなって検査を中止させ、若い女医さんが怒ってうちに電話をかけて来たこともありました。本当に色々あった病院でしたが、いつの間にかおば?ちゃんにとってはなくてはならない病院になっていて、召天するには一番いい場所だったかも知れません。会計の受け付けの若い女性に、おば?ちゃんが長年お世話になりましたのでと説明しましたが、後でお礼状が郵送されますとのそっけない返事でした。病院を出て、例の御もち屋さんで糠漬けと卵を買い、「見舞っていた母が90歳で亡くなってしまいましたので、もう寄れなくなってしまいましたが、近くに来た時には寄らせていただきます。」といいますと、御もち屋さんの奥さんは「あ?、そうですか、近くに来られたら、ぜひお立ち寄りください。」と仰ってくださいました。やはり温かい応対をされますと嬉しいですね。(^^;) 帰宅すると、親戚の叔母さんからの留守電が入っていました。10分ほど前ものでしたので、直ぐかけましたら、叔母さんが出てくださいました。叔母さんはちゃんと分かっていてくださり、「これで良ちゃんも自由な時間が持てるね。」といってくださいました。そうなんです、わたしは今本当に自由に動くことができるようになったのです。時間ができましたら是非お伺いいたしますので、よろしくお願いいたしますといって切らせていただきました。間もなく仏教でいうところの壇払いを行ったお寿司屋さんから電話がありましたので、お支払いしますので直ぐに来てくださいとお願いしました。地元のお寿司屋さんなので、とても感じが良いです。あれもこれもとやらなくてはと思うことが浮かびますが、こつこつひとつひとつ済ませて行こうと思っています。m(^^)m |