することってあるものですね

曇り
時々
雨 
 きょうも午前中に1時間ほど歩くことができました。やはり歩くことは動くことの基本ですね。毎日歩いていると、何かする時に体が楽に動きます。それに歩いていると、色々なことが閃(ひらめ)きます。それでメモ紙と筆記用具をそばに置いておきます。高額のお香典をくださった方たちに、何をお返ししようかと迷っていましたが、姉が電話で「相手の方がカタログを見て、自分で選べるのはどお?」と、「うんうんそういうのあるね、いい、いい。」ということでそれにすることにしました。m(^^)m

 整理していた手紙類の中から、固定資産税の納付書が。見たら5月末日が期限の納付がありました。『あっきょうは土曜か。』と思ったのですが、最近では郵便局や銀行だけでなく、コンビニでも支払いができることに気がついて、早速ご近所のセブンイレブンに行って支払って来ました。帰りに日曜雑貨のお店こんどうさんに寄り、ボックスティッシュ、洗濯用洗剤、紅茶のティーバックなどを買って帰りました。何しろこんどうさんで買ってねは、おば?ちゃんの遺言でもあります。(^^;) 嬉しいことに、おば?ちゃんが大の仲良しだった若奥さんが、第一声に「いいお葬式でしたね。」と仰ってくださいました。「あっそうですか、嬉しいです。」とお返事。なんかとても嬉しくなりました。

 午後は溜まっていた4月5月の家計簿をつけ、おば?ちゃんの日野台教会時代の大親友のおば?ちゃんのお宅にお礼をしにお伺いしました。この方ももう90才だというのにかくしゃくとされていて、お通夜と告別式両方に出席してくださいました。丁度長女の方もいらして、おじいちゃん(93才)とわたしの4人でしばらく昔話に花が咲きました。お会いしてお話する度に、何かわたしの全く知らなかったお話が聞けてとても嬉しくなります。家に帰る途中、明日する予定の東光寺緑地の緑地管理活動の下見に行きました。先月散策路のホタルブクロだけを残して草刈りしましたが、今月はそのホタルブクロが綺麗に咲いていました。先月の活動時に集めたゴミの収集を市役所の人に連絡し忘れてしまったのですが、ちゃんと収集されていましたので良かったです。(^^;) 湧水地に行く途中の散策路の草が大分伸びて来ていますので、明日晴れたらここを刈るようだな、なんて思いながら東光寺緑地を後にしました。直ぐに帰宅せず、旭ヶ丘のサンワに寄って、スニーカーと夕食用のハンバーガーや飲み物を買って帰りました。

おば~ちゃんとの12年半

昨晩と今朝と新しく始めるパソコン出張サポートの仕事用の名刺を作っていました。市の施設で行っているパソコン入門教室の7、8、9月教室の募集広告を、7月1日の市広報に載せてもらうための電子申請もしました。午後は庭の椿についたチャドクガの駆除です。枝を高枝鋏でどんどん切り落とし、地上に落ちた葉についているチャドクガに殺虫剤を噴霧しました。どんどん枝を落とし、最終的には椿の木は伐採するつもりです。花は綺麗ですが、毎年チャドクガで悩まされるからです。(^^;)

曇り おば~ちゃんとは、結局12年半ふたりで暮らしました。その間持病の虚血性心疾患による入院が2回と、今回の骨折・肺炎による入院がありました。最初の入院は一緒に暮らし始めて2年目の冬、おば~ちゃんが79才の時でした。集中治療室に、明日イスラエルに巡礼の旅に出るというキリストの幕屋の伝道師の方が来て祈ってくださったら、翌日おば~ちゃんの心電図の波形が正常になって元気になってしまいました。

2回目の入院はおば~ちゃん85才の時でした。暮れ近くになって具合が悪くなり、毎日のように発作が出て苦しがるようになってしまいました。寝床のそばにブザーのスイッチを置いておいて、発作が始まると夜中であろうと夜明けであろうとわたしが2階から飛び降りて来て、ミオコールというニトログリセリンのスプレー薬をおば~ちゃんの舌下にスプレーしました。あの頃はもういよいよだめだと思いました。その時に泣く泣く作ったのが、今回のお葬式に使った額入りの写真です。そんな状態が翌年の3月頃まで続き、とうとう救急車でお世話になっている立川相互病院に。その時は桜が咲くまでおば~ちゃんを生かしてください、なんて祈ったものでしたが、病院で心臓カテーテル検査とバルーン手術をしていただき、何とか退院までこぎつけました。その後心不全による浮腫みが出、またその年の6月に再入院。しかし若い男性の先生が、おば~ちゃんにあった利尿剤を見つけてくださり、浮腫みが取れてまた元気になってしまいました。ただその時、動き回るおば~ちゃんを大人しくさせるために睡眠薬を与えすぎ、帰宅後夜間せん妄が出て困りました。しかしそれは、睡眠薬を止めることですっかり治りました。以来3年間発作もなく、面白くて楽しいおば~ちゃんと平穏な日々を過ごすことができました。感謝感謝。

そして去年、春頃から心臓がおかしい、苦しいで2回ほど救急車で立川相互に行ったのですが、大事に至らず退院。しかし夏頃より、おば~ちゃん自身が、頭がおかしくなってしまったといいだしました。考えがまとまらないとのことです。10月に入ったら、突然徘徊するようにもなってしまいました。玄関にいくつも鍵をつけたりしたのですが、大雨の日の夜中1時に庭側の戸から抜け出し、玄関前で転倒して骨折。その後はこのブログの最近の書き込みを読んでいただければ分かりますが、飲み込み障害、肺炎、寝たきりと経過をたどり、先月の31日にとうとう天に召されました。庭側の戸の鍵を、何でもっと厳重にしなかったか、それだけを今でも悔やんでいます。骨折さえしなかったら、もう少し痛い目をみずに天に昇れたのではと...。おば~ちゃん許してね。m(_ _)m

ですから、2回目に具合が悪くなった2002年の暮れから、わたしは非常勤としてお手伝いに行っていた農工大の仕事を辞め、ずっと家でおば~ちゃんのお世話と見守りをしていました。家にばかりいて、パソコンばかりいじっていたので、パソコンに詳しくなったという訳です。今寂しいですが、とても自由です。どこにでも行けます。泊まりの旅行にも行けます。でも仕事を辞めてからは、おば~ちゃんの遺族年金でふたりで暮らしていましたので、これからは年金が出る10年後まで何かで収入を得なければなりません。幸いおば~ちゃんと暮らしている間、ヘルパーさんに来ていただきパソコン教室をしていましたので、その関係の仕事ができそうです。パソコン出張サポートなる仕事も始めました。忙しくなってくれればいいのですが...。それには実力もさることながら、愛想よくいつもニコニコしていなければだめですね。おば~ちゃん、天から見ていてください。(^^;)

葬儀を終えて…

 豊田駅北交流センターは、JR豊田駅の北にあるのでその名前がつけられたのですが、場所をもう少し詳しく説明しますと富士電機の隣、グランループというマンションに隣接したところにあります。そこから西友の入り口に向かう途中に(地図) 本格的インド・ネパール料理SANGAM というお店がオープンしました。確かJR日野駅の近くにもあったと記憶しています。

曇り
晴れ
曇り
 きょうはだんだん晴れて来たのですが、時折ポツリポツリ来たり夕方になって雷の音が聞こえたりしました。午前中に1時間歩くことができました。4?5キロほどでしょうか。その後シャワーを浴び、豊田駅北交流センターに行って予定表を取り替え、みずほ銀行に寄って預金と通帳の更新をし、ムラウチ電気に回ってパソコンのプリンター用紙を何種類か買いました。その足で今度は宮にある日野郵便局に行き、きのう不在でいただけなかった郵便物を受け取りました。お香典と、新しく発行された国民健康保険被保険者証でした。病院なんかでは、よく保険証保険証といっていますが、正しくは国民健康保険被保険者証というのですね。お腹が空いて来たので、栄町のいなげやに寄り、お弁当やらお新香やら色々購入。帰宅してゆっくり食べさせていただきました。

 お金を預け入れしたみずほ銀行の口座から、お通夜のふるまい料理を出してくださった会社への支払いをパソコンを使ってインターネット上で行いました。みずほマイレージクラブのクレジットカードで毎月のネット接続料を支払っている関係で、みずほの支店間の送金は全て手数料が無料で済みます。お昼を食べ終わったら、何だか眠くなって来てしまいました。若い頃からそうです。高校の時も、よく午後の最初の授業はこっくりこっくりしてしまって困った記憶があります。それで少しお昼寝。

 朝、立川相互病院から会計ができますとの連絡をいただいていましたので、きょうのうちにお支払いしたくなり、4時を過ぎてから行きました。いつもの寝巻き代、今回は亡くなった後に着せる浴衣のお代も含まれていますので、ちょっと額が多くなっていました。それに死亡診断書の作成料。後その他となって一万円ちょっと請求されていましたが、これは亡くなったおば?ちゃんの体を拭いたり着替えさせたりした時のお代でしょうか。よく分かりませんでした。それとおば?ちゃんが転院する時にするつもりで用意していたまとまったお金を、病院にと寄付させていただきました。思い起こせばおば?ちゃんは日野台診療所と立川相互病院に30年近くお世話になり、おかげで90歳まで生きることができました。おば?ちゃんもけっこういうべき時にはちゃんという人でしたので、立川相互で散々待たされて、怒って病院に文句をいって帰って来たこともありました。確かその時はカルテがちゃんと回されていなかったらしく、後から来た方が次々と呼ばれていたとのことでした。病院のどなたかが、自宅まで謝りに来られたように記憶しています。大腸内視鏡検査の時は、おば?ちゃんが途中で痛くなって検査を中止させ、若い女医さんが怒ってうちに電話をかけて来たこともありました。本当に色々あった病院でしたが、いつの間にかおば?ちゃんにとってはなくてはならない病院になっていて、召天するには一番いい場所だったかも知れません。会計の受け付けの若い女性に、おば?ちゃんが長年お世話になりましたのでと説明しましたが、後でお礼状が郵送されますとのそっけない返事でした。病院を出て、例の御もち屋さんで糠漬けと卵を買い、「見舞っていた母が90歳で亡くなってしまいましたので、もう寄れなくなってしまいましたが、近くに来た時には寄らせていただきます。」といいますと、御もち屋さんの奥さんは「あ?、そうですか、近くに来られたら、ぜひお立ち寄りください。」と仰ってくださいました。やはり温かい応対をされますと嬉しいですね。(^^;)

 帰宅すると、親戚の叔母さんからの留守電が入っていました。10分ほど前ものでしたので、直ぐかけましたら、叔母さんが出てくださいました。叔母さんはちゃんと分かっていてくださり、「これで良ちゃんも自由な時間が持てるね。」といってくださいました。そうなんです、わたしは今本当に自由に動くことができるようになったのです。時間ができましたら是非お伺いいたしますので、よろしくお願いいたしますといって切らせていただきました。間もなく仏教でいうところの壇払いを行ったお寿司屋さんから電話がありましたので、お支払いしますので直ぐに来てくださいとお願いしました。地元のお寿司屋さんなので、とても感じが良いです。あれもこれもとやらなくてはと思うことが浮かびますが、こつこつひとつひとつ済ませて行こうと思っています。m(^^)m

キリストの幕屋の感謝会

晴れ
曇り
おば~ちゃんはちょうど5月の月末、31日木曜日に召天しました。毎週水曜日は、わたしが市の施設でパソコン入門教室を行っている日なのですが、その教室と教室の間に、お通夜・告別式と全て行うことができました。またお通夜・告別式と司会進行をしてくださり、大勢のおば~ちゃん縁の人たちが参加してくださったキリストの幕屋の方々のお話では、普段日曜日はサンケイ会館に日曜集会に皆出かけている日なのに、6月3日はたまたまお休みの日だったそうです。考えてみれば、おば~ちゃんはわたしのために召天の時期を延ばし延ばししてくれたような気がしてなりません。おば~ちゃんが入院している間に、わたしは心臓の治療と、虫歯の治療を終え、すっかり元気になることができました。
という訳できょうは水曜日、パソコン入門教室の日です。デジタルカメラ入門の2回目として、画像編集入門です。画像編集に使うソフトは、やはりアドビーのフォトショップ辺りが一番良いと思うのですが、2時間の受講料が500円の講習会で、何万もするソフトを買っていただく訳にも行きませんので、わたしの教室では JTrim や PictBear などのフリーソフトを使ってお教えしています。きょうはその JTrim のインストールと使い方をお教えしました。
教室が午後3時に終わり、施設のパソコンのメンテナンス(日野市には情報ボランティアという有償ボランティア制度があり、わたしも登録しています)をした後、一旦帰宅して一休みし、キリストの幕屋の方々が夜の7時半より感謝会を開いてくださるとのことでしたので、国分寺の幕屋まで出かけました。大勢の方々がお集まりくださり、またまたおば~ちゃんのお話を色々お聞きすることができました。皆さんありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。何かわたしのようなものでも、お役に立てることがあるといいのですが。(^^;) (写真左上と右は、わたしの小さい頃のものです)

キョウチクトウの花

曇り
時々
晴れ
きょうは午前中になんとか1万歩、歩くことができました。約1時間半です。そんなに早足でなくても、1万歩も歩くと体全体が温かくなってきますね。かの資本論で有名なカール・マルクスも、部屋の中で行ったり来たりしながら原稿を書いたそうです。そのため床には歩いた跡が、くっきり残っていたと聞いたことがあります。
おば~ちゃんが左足大腿骨頚部を骨折するまでの3年ちょっとの間、ずっとお世話になっていましたホームヘルパーさんが、連絡をいたしましたらお通夜の前にお香典を持っておば~ちゃんの顔を見に家まで来てくださいました。それできょうはお香典返しを持ってその方のご自宅をお訪ねいたしました。その途中、万願寺辺りの中央高速のフェンス内の法面に、キョウチクトウの花が満開でした。キョウチクトウって真夏の花かと思っていましたが、もう今頃から咲くんですね。帰りにまた日野バイパス沿いにできた和菓子屋、日本橋長兵衛に寄って『丁稚きんつば』をふたつ注文したのですが、今品切れですといわれてしまいました。「う~ん、だったら見本をしまっておいたら。あるいは品切れ中の札でもつけておいたら。」といいたいくらいでしたが、そこはお上品に「では日を改めてまた参ります。」といってお店を出ました。神明のWelParkでまた緑の野菜ジュースを買ったので、隣の和菓子屋さんも覗いたのですが、これといったものがなく、結局多摩平の紀ノ国屋さんに寄って箱入りの栗一粒を買って帰りました。

おば~ちゃんの写真

晴れ  今回のお通夜・告別式に使ったおば~ちゃんの写真です。9年半くらい前に、身体障害者(虚血性心疾患で3級でした)手帳に貼る写真を作るために、自宅の2階の襖をバックにして撮りました。この写真だけ写りが良く見えましたので、お葬式用として大きくし、黒い額も買って大分前から用意してありました。この写真(A4サイズ)では小さいとのことで、結局この写真を元にして、東都式典さんの方で大きいものを作りました。でもどこかで使いたいということで、火葬場まで行く車の中で、喪主が胸の前に持つ写真として利用しました。告別式後は、いつもいるキッチンの壁に飾ってあります。時々見ると、とても心が和みます。(^^;) 実はこの写真を撮った頃は、まだデジカメは持っていませんでした。この写真はEOS5という35mmフィルム用のカメラで、スライドフィルムを使って撮りました。それをEOS-D30というデジカメで複写したものです。EOS-D30は、おば~ちゃんに買ってもらった30万円近くもしたデジカメですから、少しはおば~ちゃんのために働かないとね。(^^;)

おば~ちゃんの告別式

晴れ  きょうはおば~ちゃんの告別式です。良い天気に恵まれました。晴れても未だ6月の初めなので、喪服を着ていてもそれほど暑くはありません。しかも今時の葬祭場は、空調が良いので助かります。11時から始まりますので、10時頃着くように行きました。出かける前に、告別の辞や花入れ後の喪主挨拶の原稿をワードで作ってプリントしました。ついでに、おば~ちゃんの評判の良かった写真も葉書き大にプリントしました。ご希望の方に、記念に差し上げようと思ったからです。きょうもキリストの幕屋関係の人も含め、60名ほどの参列者がありました。告別式はお通夜とは違い、個人の思い出話よりも略歴やおば~ちゃんを天に送るための祈りなどが中心でした。キリストの幕屋は、祈りがけっこう激しいので一般の参列者が驚かないか少し心配です。少々激しかったですが、なんとか無事に進み、わたしの告別の辞の順番になりました。わたしはおば~ちゃんのいつもニコニコしている精神を引き継ぎ、この世にいる間に絵本を作りたいことを報告。おば~ちゃんは、天のお父さまを見上げて勢いよく天に昇ってください、応援していますといいました。そしていよいよ献花、花入れと続き、喪主の挨拶も無事終わりました。キリスト教ですので、霊柩車はいわゆる霊柩車ではなくリンカーンです。喪主として写真を前にかかえ、リンカーンの助手席乗って火葬場へ。思わず車の左のドアを開けて乗ろうとしましたが、外車ですから助手席は右側ですね。(^^;) 流石リンカーン、道を滑るように走ります。火葬場は式場の直ぐ近くにありますので、間もなく到着。親族の他に、キリストの幕屋の方々も大勢来てくださいましたので、皆で自己紹介などをしていました。そんなことをしながら待つことしばし、職員の方がお知らせに来、皆で遺骨を拾いに行きました。昨年左足大腿骨頚部を骨折し、金属のプレートで固定する手術を受けましたので、やはりそのプレートがそのまま出て来たそうです。予め職員の方がのけてくださっているので、テーブルの上にはありませんでした。ご覧になられますかと聞かれましたが、けっこうですと答えておきました。遺骨も皆骨壷に納まり、親族とキリストの幕屋の数名が、近くのお寿司屋さんに移動し、献杯をして遅い昼食を食べました。申し込んだ人数よりひとり少なくなりましたので、その分をおば~ちゃんの陰膳としていただきました。おば~ちゃんはお寿司が大好物だったので、それもいいでしょう。次から次へと出て来るご馳走で満腹になり、皆「お疲れさまでした、いい告別式でしたね。」と口々にいいながら帰途につきました。
 おば~ちゃん、生前の念願通り所属していたキリストの幕屋のお葬式を上げられてよかったね。生前のおば~ちゃんのことをこんなに知っている人がたくさんいるとは思わなかったよ。(^^;)